新松戸サッカークラブ会長 重元智史
新しい年を迎えて皆さんに今年の抱負と決意をご報告する予定でしたが、非常に残念なお知らせを差し上げることとなりました。
新松戸サッカークラブ設立3年目からずっと携わってきて頂いた今村清秀相談役が1月9日に急逝されました。昨年11月より体調不良で忘年会も欠席され、1月より入院治療と伺っておりましたが、入院直後に急逝されご本人の意向で家族葬での葬儀となったと1月中旬にご家族よりお聞きしました。結果、この2月末に皆さんにこの場をお借りし、お伝えする次第です。
今村相談役は30年の長きにわたり、指導者として活躍され、会長としてクラブを引っ張り、相談役としていろいろなアドバイスを頂きました。我がクラブにとっては本当に「生みの親」、「育ての親」の存在であり、設立当初からの記録をしっかり作成・保管並びに近隣団体との人脈も築いて頂き、真に精神的支柱でありました。大変残念です。
今村相談役が20年誌に寄せられた一文をご紹介し、故人の人柄・業績を忍びたいと思います。残った我々は新松戸サッカークラブ設立の原点を忘れず、近隣の方々と一緒に選手の活躍の場を維持・発展させていきたいと思いを新たにしております。
今村相談役(30周年記念座談会にて) |
=== 今村相談役の言葉(20年誌より抜粋) ===
昭和57年4月に二人の息子の入会と同時にお手伝いを始めて以降、当クラブでお世話になっています、私の思い出を列記することにさせて戴きたいと思います。
【練習場所のこと】
・南小(昭54~) :・窓硝子を割って、後始末(夕方が多かった。)
・近くの公園でも練習しました。
・アカシア公園 :・御父兄にお願いして子供とボールの飛び出し防止
・ゴール運び(近くの酒屋さんにもお願いしました。)
・南公園 :・石ころだらけのグランドで石拾い
・西小(昭62~) :・やっと充分な練習場所が得られて喜びました。
・馬橋北小(平4~) :・トイレは南公園のトイレを利用
・青少年会館体育館:・夏は暑いのです。
【合宿の思い出】
・守谷 :初日にすごいにわか雨にあってみんなずぶ濡れ(昭和57年)
・岩井海岸 :宿舎からクランドまでの遠かったこと (昭和58年)
・白子海岸 :でこぼこのグランドと海のにおい (昭和59年)
・海上自衛隊: (昭和60年~平成9年)
‐中央クランドの素晴らしさと、倉庫横/滑走路横のグランドのひどさ
‐海鵬荘の大部屋でのコーチのこわ~いお話し
‐事故とけが(コーチのけがの方が多かった?)
・波崎 :銚子の花火が楽しめた。バーベキューでびっくり(平成10~11年)
【もちつき大会】
・大雪の日にコーチが全員で雪かきをして、決行したこともありました。
・ガスの釜の炊き上がりの遅さでいらいらしました。
【お別れ大会】
・ずう~っと控え選手でも一生懸命頑張って来た子に、他の子供皆が声援を送ってくれる姿を見ると長年お手伝いをして来た甲斐があったと思います。
【クラブ員の数】
・ピークは330人余。背番号70番台も有りました。
・会員の多さに仕方無く入会試験も実施(今はすごく反省しています)
【松戸サッカーフェスティバル】
・江戸川河川敷での土の竜巻で、髪も鼻の穴も泥だらけ
・主水にクランドが出来て、これで対外試合でも肩身が広くなりました
【ミャンマーとの交流】
・練習用具を西コーチにミャンマーに持って行って貰って、ミャンマーの子供達からたくさんのお礼の手紙を貰いました。
【菜の花の種まき】
・坂川の土手に花の種をまき、翌年たくさん咲きました。
最後に、一言述べさせて戴きますが、当クラブの20年通して引き継がれたクラブの基本的運営方針は、何よりも子供達の健全な身体と精神の育成が目的であること、強いチームになる前に皆んなのチームであること、そして、皆んなで運営する開かれたチームであることです。
当クラブは、20年前に60人程度のクラブ員でスタートし、ピークは330人余まで拡大しましたが、現在、小子化の影響で新松戸の小学校生の数も激減しており、今後は過去の様なクラブ員の数は望めませんが、これまでのクラブの精神を継承し、21世紀を担う子供達の育成の一助となるべく、いつまでも、いつまでも継続して欲しいと願っております。
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今村相談役のご冥福をお祈りいたします。 合掌